なぜ大相撲を神事であり国技であると主張するバカが跡を絶たないのか

白鵬の三本締めがまた波紋を呼んでいる。叱られるに決まっているのにわざわざ敢行する白鵬も白鵬だが、いちいちこんなことに目くじらを立てる横審には開いた口が塞がらないとしか言いようがない。先場所の白鵬仮病扱いといい、なぜ横審は学習しないのか。稀勢の里を散々甘やかしておいて、モンゴル人力士にいちゃもんをつける根拠が歴史だの国技だの品格なんだから、本当にただのレイシスト集団だ。一体稀勢の里の横綱戦績36勝36敗のどこに品格があるというのか。北の湖が死んだ今、協会の中には白鵬に意見をできる人材はいない。理事長が北勝海では力不足にも程がある。肝心の貴乃花は協会に残っていようと退職しようとどのみち宗教漬けなのだから、本当にどうしようもない組織である。

さて、今回はその白鵬批判の根拠のひとつ「神事」と「歴史」。いったいなぜ大相撲は国技を自称するようになったのか、天皇との関係をもとに読み解いていこうと思う。

大相撲の起源


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    大相撲の起源(この見出しをクリックしてください)
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  • H4「相撲」の起源はストリップショー(この見出しをクリックしてください)
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古事記

一応、大相撲の起源は古事記に登場する国譲りの際に行われたタケミナカタとタケミカヅチの喧嘩だとされている。

ささげて來て、「誰たそ我が國に來て、忍しのび忍びかく物言ふ。然らば力競べせむ。かれ我あれまづその御手を取らむ」といひき。かれその御手を取らしむれば、すなはち立氷たちびに取り成し、また劒刃つるぎはに取り成しつ。かれここに懼おそりて退そき居り。ここにその建御名方の神の手を取らむと乞ひ歸わたして取れば、若葦を取るがごと、つかみ批ひしぎて、投げ離ちたまひしかば、すなはち逃げ去いにき。

古事記より

かんたんに訳すと、タケミナカタがタケミカヅチの腕をつかもうとしたら、タケミカヅチが手を氷柱、そして刀に変えたので掴めず、逆にタケミカヅチがタケミナカタの手を握り潰してしまった、というお話。

しかし、そもそも古事記は所詮古事記。天照大神オタクである私でさえ神武天皇の存在は疑っている。神話とはそんなものなのだ。あくまでこれは後付け、なんらかのタイミングで書かれた創作物として認識しておくべきだ。

日本書紀

ここで始めて力士と「すもう」という単語が登場する。Wikipediaから引用するが、

この中で「朕聞 當麻蹶速者天下之力士也」「各擧足相蹶則蹶折當麻蹶速之脇骨亦蹈折其腰而殺之」とあり、試合展開は主に蹴り技の応酬であり、最後は宿禰が蹴速の脇骨を蹴り折り、更に倒れた蹴速に踏み付けで加撃して腰骨を踏み折り、絶命させたとされる。

相撲 -Wikipedia

少なくとも現代の相撲とは違いガチの殺し合いと見られる。これが確認できる相撲の起源といって差し支えないだろう。

「相撲」の起源はストリップショー

秋九月、木工韋那部眞根、以石爲質、揮斧斲材、終日斲之、不誤傷刃。天皇、遊詣其所而怪問曰「恆不誤中石耶。」眞根答曰「竟不誤矣。」乃喚集采女、使脱衣裙而著犢鼻、露所相撲。於是眞根、暫停、仰視而斲、不覺手誤傷刃。天皇因嘖讓曰「何處奴。不畏朕、用不貞心、妄輙輕答。」仍付物部、使刑於野。爰有同伴巧者、歎惜眞根而作歌曰、

婀拕羅斯枳 偉儺謎能陀倶彌 柯該志須彌儺皤 旨我那稽麼 拕例柯々該武預 婀拕羅須彌儺皤

日本書紀

采女、使脱衣、露所相撲からなんとなく察しがつくが、要は雄略天皇が采女、官女を集めて脱衣相撲を取らせたのが相撲の起源らしい。一体1500年の歴史を自称しながら女人禁制などという大きな矛盾を抱えて恥ずかしくないのか、と言いたい。

しかし、ここで着目すべき点は天皇と相撲の関わりである。やっていることがやっていることだが、この時代から天皇家と相撲が結びついていることは確かである。

相撲節会

相撲節会(すまひのせちへ)が奈良時代から平安時代にかけて確立された。宮中の年中行事のことである。

前述の出来事以降、古事記と日本書紀には相撲に関する記述は多く見られ、なんらかの形で天皇の前で相撲が行われてきたと考えられているが、8世紀に入ると宮中で相当頻度で行われていたとされている。

792年、平安京へ遷都で有名、みんな大好き(ネ○ウヨは嫌いな)桓武天皇が機能不全に陥っていた律令制を改革するため健児(地方に配属された軍)の制を行う。その健児の訓練のなかに相撲が取り込まれており、ただの宮中行事だけでなく武道としての側面が確立されたことを意味している。軍人選抜の意味合いを兼ねた宮中行事として相撲節会は完成される。

このように、奈良平安にかけての相撲は宮中のなかで成長していった。

出た!伊勢神宮

古事記が関連すると絶対に出てくる伊勢神宮という4文字。やはり日本人にとって特別な神社というのを実感する。

話を本題に戻そう。725年に日本は凶作に遭い、それに伴って伊勢を始めとする各社で相撲を奉納させたのが神事としての相撲の起源とされている。

つまり、宮中行事としての相撲が確立された頃に神事相撲も生まれている。このときには相撲は2つの側面を持っていたとも考えられるが、神道と宮中の繋がりを考える必要がある。

天皇家と神道についてざっくりと解説しておくと、神道は一神教でないとはいえ天照大神を中心に八百万の神々を信仰する宗教であり、その天照大神の8代目の子孫が初代天皇神武天皇である。(こんなあやふやな説明をすると国粋主義者に殺されそうだが(笑)。つまり神道と皇族には非常につながりが深いが、その一方で725年に天皇に在位していた聖武天皇は奈良に大仏を建てるなど政治に仏教を取り入れている。つまり、神道というのは他の宗教に不寛容であったり排斥したりする宗教どころか、ある意味で天皇家そのものと見ることもできてしまう。天皇家が政治に利用するものでなく、宗教と宮中が2つ並んでいるような状態。少なくとも武家政治が主流になるまではそのような状態だった。

これらのことからわかるとおり、相撲は神事というより天皇家と密接に関わってきたと言える。神事もあくまで神道=天皇家の行う行事一環とみなすのが正当というのが私の考えである。

しかしこれら2つの相撲を別物とみなすこともできる。なぜなら神事相撲は八百長だったからである。豊作祈願など占いの意味合いが強かった神道相撲は、勝ち負けによってその結果が決まる。つまり、勝負の殆どは1勝1敗に帰結するように行われた。完全なヤオだ。誰がどう見てもヤオだ。しかし神事相撲とはそういうものである。そういう点では、宮中行事として行われた競技的な相撲とは全くの別物である。

武家政治と相撲

そんな相撲節会もやがて終焉を迎える。平治の乱、源平合戦による宮中の情勢悪化により宮中で行われる相撲節会は完全に廃れる。

やがて源氏が実権を握り、この時代では武士の日々の鍛錬として相撲が取り入れられた。頼朝も好んで家臣に相撲を取らせていたという。

しかしあまり室町時代に入ると相撲は注目されなくなったようで、この時代の武家相撲に関する記述はあまりない。

ちなみに、相撲節会は廃れたものの京都においてはその文化は引き継がれており、しっかりと見世物としての相撲は形を残していた。頼朝も本場京都を意識して鶴岡八幡宮などで相撲を取らせていたようである。しかしそれも応仁の乱で廃れることになる。

この時代、都落ちする貴族に従って文化も日本各地に広がり、相撲もそのビッグウェーブに乗っかる形となる。これにより、各地方で庶民に対しての見世物としての相撲が普及し、本格的に相撲を業とする人が増え始めた。この相撲を職業とする形態は平治の乱以降に続いていた京都での相撲ですでに確立されており、それが各地方に広まった形となる。これを土地相撲という。

神社仏閣の修復!?

神社仏閣の修復のためのチャリティー興行を「勧進」というが、相撲にも勧進相撲というものがあった。しかし、神社仏閣修復というのは名ばかりで、実際は営利目的であるにかかわらず勧進相撲と名乗って興行を行うことが常態化した。これが現代の興行で行われる大相撲の原型である。以後、勧進相撲という名前で日本各地で興行が行われるに至る。これが戦国時代から江戸初期にかけての出来事である。

途中紆余曲折はあるものの、1742年に勧進相撲が全面的に江戸で解禁され、勧進相撲は全盛期を迎える。

この頃は完全に相撲は神事ではなく見世物としての意味合いが濃くなっていくのだが、信じられないのはこの後だ。

1760年代、江戸では女相撲が人気を博す。当然上半身は裸で相撲を取る、雄略天皇のときと何一つ成長していない。しかしやはりお色気だけでは飽きられる。そこで、盲人同士や盲人と女性を取り組ませて興行を行っていたのだ。

完全に発想が中世である。女性蔑視は時代が時代だから仕方ないとはいえ、女と障害者を戦わせてそれを見世物にする、ローマの闘技場ではあるまい。こんな頭のおかしい興行が平然と行われていたのだから驚きである。

その後、1792年に将軍が観覧する上覧相撲が行われ、以後相撲人気が最高潮を迎える。雷電や谷風といったスター力士も登場し、興行としての相撲は完成され、のちの大相撲へと至る。

こんな残虐な歴史を肯定する横審こそ日本の恥である

だからこそ私は主張したい。神事としての相撲にあやかって詐欺まがいの商売を行い興行としての地位を確立したのが大相撲であるならば、大相撲は神事と繋がりがあるだけの、ただのスポーツであることは明白である。番付制度などルールもある程度制定されているし、相撲は正真正銘のスポーツに違いない。

そして大相撲の起源は江戸から始まった勧進相撲であることは明白だろう。神事の側面が引き継がれているだけで、1500年の歴史があるとはとても言えない。もし雄略天皇から相撲の歴史が始まったと仮定した場合、江戸時代に裸の女相撲に回帰するといった皮肉が生じてしまう。こんな歴史を肯定しているのだから、本当に今の相撲協会・横審は滑稽である。

グローバル化が進む今日において、歴史や伝統を重んじることも大切だがなにより守られるべきは人権だ。こんなカビが生え腐った歴史を肯定し「神事」を名乗る相撲は日本の恥である、というのが私の結論だ。

スポーツとしての大相撲が明治に発足し100年以上が経過し、平成も終わり新たな時代に突入しようとしている。

これを機に神事などといった馬鹿げた歴史から脱却し、大相撲も大きな転換期に入ってはどうだろうか。

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Posted by esmal